Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

apo

miyake2

2004.12
オートポイエーシスとしての<「顔=文字」機能>
――<顔>の認知機能の神経生理学的研究による社会科学の生物学的基礎づけの試み

序論
 本論は、統合失調症・自閉症等の精神疾患の神経生理学的研究を「社会科学の生物学的基礎づけ」へと応用するための理論的フレームを論じる。その際、本論が重視するのは、「<顔>の認知」というテーマである。従って、本論では<顔>の認知機能の神経生理学的研究を取り上げるが、こうした研究を「社会科学の生物学的基礎づけ」へと媒介するためには、<顔>の認知機能の個別研究のみでは不十分であり、より根本的には、<顔>というレベルそれ自体が持つ機能の包括的・方法論的な位置づけが上述した理論的フレームとして必要である。本論では、<「顔=文字」機能>の包括的・方法論的な位置づけ作業において<顔>の認知機能の神経生理学的研究を参照する。結論として、<「顔=文字」機能>が、生物心理社会的個体としての「人間」を生産するオートポイエーシスシステムとして位置づけられる。
1.<顔>というレベルそれ自体が持つ機能の包括的・方法論的な位置づけ:
<「顔=文字」機能>のテーマ化
ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリは、『ミル・プラトー』7章「零年―顔性」において、次のように述べている。(注1)
「顔を解体すること、これは決してささいなことではない。狂気に陥る危険も多分にある。精神分裂病者が自分の顔についても他人の顔についても等しく、顔の感覚をなくすと同時に、風景の感覚、言語と支配的な意味作用の感覚を失うのは偶然だろうか。つまり、顔とは一つの強力な組織作用なのだ」
ここでは、「精神分裂病(統合失調症)」と「顔」との根源的な関係がテーマ化されている。これに関連して、花村誠一は、「顔」の激変という強度的な(強度としての)出来事について、次のように語っている。
「私は分裂病的、つまり正真正銘の共約不可能な「位置のずれ」の例として、症例におけるあの出来事的な瞬間、患者の描く「モナリザの顔」がお化けみたいに変貌する瞬間をあげる。重要なことは、これとつり合って、壁に貼られた数多の「芸能人の写真」もまた、一挙に、お化けみたいに変貌する点で、くだんの出来事はこれら両契機によってはじめて成立するといえる。これこそまさに、「写しの写し」として強度の波動の生じる瞬間、患者がまったく新規な――メディアと日常空間とが等質化する――記号過程にあけわたされる瞬間をとらえたものでなくて、いったい何であるだろう」(注2)
これら引用において述べられている「顔」と「風景」(「光景」を含む<景>)の同時変容または同時消滅というテーマは、本論の中核をなす論点でもある。すなわち、<顔>が持つ機能の包括的・方法論的な位置づけが、ミクロレベルの生物心理社会的(bio-psycho-social)個体としての人間を社会システム=社会的時空としての「風景(landscape/paysage)」へと媒介する鍵になるという論点である。この点に関して、ネグリ/ハートは次のように述べている。
「世界市場は国民国家が押しつけてきたような二項対立的な分断から解放される。そしてこの新しい自由な空間においては、無数の差異が現れるのである。これらの差異は(中略)高度に差異化され移動性をもった構造によって成り立つグローバルな権力のネットワークのなかで厳しく統制されているのである。アルジャン・アバデュライは、これらの構造の新しい質を、風景(landscapes)、あるいはむしろ、海景のアナロジーで捉えている。彼は現代世界に、資金景、技術景、民族景などをみている(中略)世界市場は差異の現実政治を確立するのである」(注3)
ここでの風景・海景のアナロジーは、生物心理社会的基礎を持つものとして記述できる。そこで、以下に、「顔」と「風景」の根源的な関わりを論じる。
我々人間は、「顔」を持つことによって単なる「動物」から脱却し、「自分の身体」を持つことになる。言い換えれば、「自分の身体」は、我々人間が「顔を持つ」過程で、「意味のあるもの」として生み出される。このとき、「自分の身体」が溶け込んでいる環境は、「風景」と呼ばれる。単なる動物の「頭部」は、「風景」のなかで人間の「顔」となる。ところで「風景」は、「他者の身体」をも溶け込ませている。その「他者の身体」は、個々人の欲望が向かう他者の「顔」を持っている。「風景」において、私の「顔」は、他者の「顔」へと向かう。この意味で、「風景」とは、お互いの欲望を介して、私の「顔」と他者の「顔」が出会う場なのである。すなわち、社会システム=社会的時空の構成において、個々人は「顔」を介して結びつけられるのである。以後、この<顔>が持つ機能の包括的・方法論的な位置づけを行う。
斎藤環氏は、「顔」と「表意文字の線」との関係について次のように述べている。
「「顔」は「固有名」として、「一なる印」として、「表意文字」として、「特権的シニフィアン」として、さらにはまた「対象a」としての特性を所有している。(中略)「顔」が「対象a」でもあるということ、それは「顔」がもたらす固有性のコンテクストが存在しなければ、いかなる欲望も(したがって「意味」すらも)不可能であるということを意味している」(注4)
 「顔」は、表意文字の線として、この私にとっての欲望と意味を可能にするコンテクストをもたらす。この「顔」を、「顔=文字」と呼ぶことができる。斎藤氏によれば、この「顔=文字」は、心身の主体としての私と、神経系としての私の両者を統御している。この点に関して、斎藤氏は「主体の二重化」を試みている。
「ここで私は主体の二重化を試みようと思う。すなわち(中略)「器質的主体(Organic Subject=以下OS)」と、「精神分析的主体(Psychoanalytic Subject=以下PS)」への二重化である(中略)PSに関しては心的装置とほぼ重なると理解されるのに対して、OSは「身体」ではないという点が重要である。ここではラカンにならい、「身体」はPSそのもの、あるいはPSの表象物を指すことになる(中略)ここで「心」と「身体」の双方を支配するのが、シニフィアンの論理なのである。これに対しOSは「神経系としての主体」として理解することができる(中略)ここには、いかなるシニフィアンの作用も存在しない」(同上pp.330-331.)
だとすれば、「心」も「身体」も、この私にとっての意味するものとして、その機能を「顔=文字」に負っている。さらに、この心身は、「顔=文字」によって、「神経系としての主体」へと媒介される。すなわち、「顔=文字」は、心身と神経系を媒介する。「顔=文字」が記憶痕跡を生産するのはこのためである。この記憶痕跡こそが、「文字」としての「顔」である。斎藤氏によれば、
「意味作用とはすなわち、OSとPSが「文字」を媒介としつつ、コンテクストとシニフィアンを交換する過程において析出する(中略)記憶痕跡を残すのは「文字」にほかならない(中略)顔の記憶については、それが文字としての痕跡を残す点が強調されなければならない(中略)コンテクストとしての顔の記憶は、それが「固有性」にかかわるという意味で、ほとんど文字に等しい。つまりPSにおいて、顔の同一性はシニフィアンとして反復されるが、顔に固有の同一性は、OSの作動によって文字として記憶される」(同上pp.338-339.) (注5)
「顔=文字」は、他者の欲望が位置する「コンテクスト」と「意味するもの」としての他者の欲望をともに構成する。社会システム=社会的時空の構成において、個々人は「顔」を介して結びつけられるのである。次章では、以上の論述を踏まえて、<顔>の認知機能の神経生理学的研究の位置づけを行いたい。
2.理論的フレームとしての<「顔=文字」機能>による<顔>の認知機能の神経生理学的研究の位置づけ
前章で論じた事態を、オートポイエーシスとして捉えるなら、(注6)「心的システム」と「身体システム」のカップリングシステムが「PS」であり、オートポイエーシスとしてのこの「PS」と「神経システム=OS」とのカップリングシステム=オートポイエーシスとして<「顔=文字」機能>を位置づけることができる。
 以下においては、上述の理論的フレームを踏まえた上で、<顔>の認知機能の神経生理学的研究を概観した事例として、「自閉症の対人認知研究の動向 顔研究からのレッスン」(神尾陽子 「精神医学」Vol.46,No.9,pp912-923,2004.)に絞って取り上げる。ここでの「自閉症」は、「自閉症スペクトラム」と解されている。以下に、本論において注目すべきと考える論点を挙げる。(注7)
(1)「「対人認知(social cognition)」とは、自他の関係性についての表象を形成し、その表象を用いて対人行動を柔軟に導く能力とされる。そしてその神経基盤として、扁桃体、腹内側前頭前野、前部帯状回、右体性感覚野などが重要な役割を担うとされる。これらは、人の顔や視線など対人的に意味のある情報を知覚する対人知覚の神経基盤(紡錘状回、上側頭溝)と密接な連絡を持ち、そこで処理された情報を、動機づけ、情動、認知と統合して複雑な対人表象を構成する。そして運動前野、運動野、基底核に出力して、対人行動が導かれる。表出された対人行動がまた対人知覚の情報源となることで、対人認知はアップデートを繰り返し、変化の激しい対人環境への適応を最大にする仕組みとなっている」(p.914.)
(2)「fMRIを用いて自閉症成人が顔から人物や表情を識別する際の脳活動を調べた研究によると、一般に顔領野とされる紡錘状回に活動が見られなかった代わりに、通常はモノの識別に用いられる下側頭回や聴覚野など顔識別に関係ない領域に活動が見られた。この知見は、自閉症者が顔や表情を識別する際に顔をモノとして扱うことを示した前述の心理学的知見を裏付ける」(p.917.)
(3)「自閉症者は、必ずしも表情識別は不可能ではないが、そのプロセスは、情動ルートを介さずに言語情報ルートへ依存した適応には向かない性質のものであることが推測される(中略)扁桃体は他者の表情や目などの情動的意味(対人的報酬性)の大きい対人刺激に関する情報処理に中心的役割を果たす(中略)意識されずになされる自動的な表情処理の神経基盤について、fMRIを用いて調べた研究によると、自閉症者には、対照群にみられた扁桃体の活動がみられなかった」(同上)
(4)「自閉症では感情プライミングが生起しなかった。すなわち自閉症者は意識的な表情識別が可能な場合でも、自動的なレベルにおいて、顔はモノと同等な意味しか持たない可能性が示唆されたといえる」(p.918.)
これらの知見から、対人認知の神経基盤と対人知覚の神経基盤との密接で循
環的な神経ネットワークが、<顔>の認知において中核をなす「神経システム」であること、この「神経システム」が機能しない場合、「顔」は「他者の表情や目などの情動的意味」を失い、「モノと同等な意味しか持たない可能性が」あることが分かる。「情動的意味」が生産されている以上、この「神経システム=OS」の作動において、同時に「PS」のカップリング=オートポイエーシスが<「顔=文字」機能>として作動しているといえる。
また、この<「顔=文字」機能>が欠けている場合、「言語情報ルートへ依存した適応には向かない性質の」プロセスが作動しているとされる。この「適応」は、「神経システム」と「PS」のカップリングが、さらにコミュニケーションの場としての「社会システム」とのカップリング=オートポイエーシスを形成することである。すなわち、<「顔=文字」機能>は、「社会システム」、「神経システム」、「PS」の三者を統合的に媒介する機能として包括的に捉えることができる。 
結論―オートポイエーシスとしての<「顔=文字」機能>
 上記論文「自閉症の対人認知研究の動向」は、結論部分において次のように述べている。
「自閉症の中核的障害のある対人領域と、周辺症状が関連する非対人領域、すなわち知覚、情動、言語、記憶、そして高次認知などとの相互関連については何も説明されていない」(p.919.)
 この「相互関連」というテーマは、もはや神経生理学の領域内部に限定され得ないものとして、上記(1)の「変化の激しい対人環境への適応を最大にする仕組み」という「生物心理社会的」あるいは「社会科学的」テーマに繋がっている。序論で述べたように、<顔>の認知機能の神経生理学的研究を「社会科学の生物学的基礎づけ」へと媒介するためには、<顔>の認知機能の個別研究のみでは不十分であり、<顔>というレベルそれ自体が持つ機能の包括的・方法論的な位置づけが理論的フレームとして必要である。本論が、「社会システム」、「神経システム」、「PS」の三者を統合する<「顔=文字」機能>の包括的・方法論的な位置づけを行ったのはこのためである。<「顔=文字」機能>とは、心的システム・身体システム・神経システムの三者を媒介し統合することを通じて、生物心理社会的個体としての「人間」を社会システム=コミュニケーションの場としての「風景」へと媒介しつつ生産するオートポイエーシスシステムなのである。
【注】
(注1) Mille Plateaux,Gilles Deleuze, Felix Guattari Les Editions de Minuit.1980. .[アクセント記号は省略] ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『千のプラトー』 河出書房新社 1994.訳書p.213-214 原書p.230. 本章1の議論において、我々は、花村誠一氏の「中核ないし解体型における分裂病的記号過程―魂の形而上学へのステップー」『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』7章「零年―顔性」および斎藤環氏の『文脈病』の議論を参照している。
(注2) 花村誠一「中核ないし解体型における分裂病的記号過程―魂の形而上学へのステップー」『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収
pp.139-140.
(注3)『<帝国>』アントニオ・ネグリ マイケル・ハート著 以文社 2003. p.257-259. 原書Empire, Michael Hardt, Antonio Negri Harvard University Press.2000.訳書p.199-200. 原書p.151.
(注4) 『文脈病 ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』斎藤環著 青土社2001年 p.325.
以下の記述において上記テキストから引用する場合、引用符の後に引用頁を括弧内に記す。
(注5) この<「顔=文字」機能>を、カントが『純粋理性批判』において規定した<超越論的図式機能>として捉え直すことができる。「組み合わせ文字(Monogramm)」(A142/B181) としての「図式性」は、カントによって「人間の心の奥深くに隠された技芸」(A141/B180f)と呼ばれている。また、「超越論的図式」は、カントによって「超越論的時間規定」という規定を受けている。「超越論的時間規定」とは、それによって自己形成において不可欠な自己言及―カントの用語では自己触発―の条件としての「最小限の時間=時点」(いわば「プランク時間」)が形成される機能である。この点に関して、津田一郎は、「カオス的精神分裂病観―自己と他者のダイナミックスを中心にして」(『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収)において、次のように述べている。「システムの内側からの記述では、主語的自己(見ている「私」)が述語的自己(行為者としての「私」)に言及した時点というのは無意味ではなく、それどころかシステムにとって自己言及を成立させるために必要不可欠な“ある時点”である。さらに述語的自己が主語的自己に言及する時点も同様に意味を持つ“ある時点”である。このことはいわゆる“瞬間”ではなく、“無限小”の時間の経過を要求する。これが幅のある時間である。幅のある時間の発生は、その“時点”を指し示す何ものかがシステム内部に発生したことを意味する。この何ものかが“意識する主体”というものであろう。」(pp.13-14.括弧内は筆者による補足。)
なお、記憶痕跡としての文字(コンテクストとしての顔の記憶)と、この私にとっての意味するもの(シニフィアンとして反復される顔)との違いについて、安部公房の『燃えつきた地図』の主人公の男が物語のラストで陥った状態が示唆的である。「解離性遁走」状態に陥った男は、名前を始めとする自らの記憶をすべて喪失するが、唯一見覚えのある喫茶店の店員の若い女性の「顔」をコンテクストとしての顔の記憶とすることで、自らの失われた過去を取り戻そうと試みる。しかし、その「顔=文字」は、「この私」にとって意味するシニフィアンとしてはもはや機能しない。男は、コンテクストとしての顔の記憶はあっても、それが自らの過去を意味づける顔とはなりえないことを確認する。男は、物語のラストで、この若い女性の顔を出発点とした過去の探索を断念して、自ら選んだ道を新たに歩み始めることになる。逆に言えば、「自ら選んだ道を新たに歩み始めること」にとって、シニフィアンとしての顔は不可欠ではない。フィクションではあるが、この事例は、強度の解離状態における<「顔=文字」機能>にとっては、「記憶痕跡としての文字」(コンテクストとしての顔の記憶)というレベルが、「この私にとっての意味するもの」(シニフィアンとして反復される顔)というレベルに対してより根源的な位置を占めるという興味深い論点を提起している。
(注6)『精神医学』花村誠一・河本英夫他著 青土社1998年、『オートポイエーシスー第三世代システム』河本英夫著 青土社1995年等を参照。
(注7)本章における雑誌論文からの引用は、引用符の後に引用頁を括弧内に記す。
【参考文献】
「自閉症の対人認知研究の動向 顔研究からのレッスン」神尾陽子
「精神医学」Vol.46,No.9,pp912-923,2004.
「自閉症スペクトラムの画像研究」遠藤太郎
「精神医学」Vol.46,No.11,pp1144-1161,2004.
「統合失調症と記憶」松井三枝「精神医学」Vol.45,No.12,pp1254-1262,2003.
「「病識」再考」池淵恵美「精神医学」Vol.46,No.8,pp806-819,2004.
「社会不安障害に対する薬物療法 古典的対人恐怖、ひきこもりとの関連」
「精神医学」Vol.46,No.9,pp933-939,2004.
『シュレーバー回想録』(平凡社ライブラリー451,2002年)
『精神医学』花村誠一・河本英夫他著 青土社1998年
『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編著 弘文堂1996年
「中核ないし解体型における分裂病的記号過程―魂の形而上学へのステップー」
花村誠一『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収
「カオス的精神分裂病観―自己と他者のダイナミックスを中心にして」
津田一郎『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収
『フロイト著作集9』フロイト著 人文書院 1983年
『オートポイエーシスー第三世代システム』河本英夫著 青土社1995年
『メタモルフォーゼ』河本英夫著 青土社2002年
『差異と反復』ジル・ドゥルーズ著 河出書房新社 1992年
『精神分析の四基本概念』ジャック・ラカン著 岩波書店 2000年
『精神分析の倫理 上・下』ジャック・ラカン著 岩波書店 2002年
『エクリ2』ジャック・ラカン著 弘文堂1977年
『精神分析事典』ロラン・シェママ他編 弘文堂 2002年
『ラカン 現代思想の冒険者たち13』福原泰平著 講談社 1998年
『ラカンの精神分析』新宮一茂著 講談社 1995年
『構造論的精神病理学』加藤敏著 弘文堂 1995年
『文脈病 ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』斎藤環著 青土社2001年
『心理学化する社会』斎藤環著 PHP 2003年
『解離のポップ・スキル』勁草書房 斎藤環著 2004年
『精神の生態学(改訂第二版)』グレゴリー・ベイトソン 新思索社 2000年
『徴候・記憶・トラウマ』中井久夫著 みすず書房 2004年
『新版 精神医学事典』加藤正明他編 弘文堂 1993年 みすず書房1999年
『アスペルガー症候群と学習障害』榊原洋一著 講談社 2002年
『やめたくてもやめられない脳』廣中直行著 ちくま新書2003年
『快楽の脳科学』廣中直行著 NHK出版 2003年
『精神分析』十川幸司著 岩波書店 2003年
『生の欲動』作田啓一著 みすず書房 2003年
『「心理学化する社会」の臨床社会学』樫村愛子著 世織書房 2003年
『脳と意識の地形図』リタ・カーター著 原書房 2003年
『ソシュールの思想』丸山圭三郎著 岩波書店 1981年
『一般言語学講義』フェルディナン・ドゥ・ソシュール著 岩波書店 1986年
『育つ・学ぶ・癒す 脳図鑑21』小泉英明編著 工作舎 2001年
『記憶研究の最前線』太田信夫・多鹿秀継編著 北大路書房2000年
『内部観測』郡司ペギオ-幸夫他著 青土社1997年
『EMDR 外傷記憶を処理する心理療法』フランシーヌ・シャピロ著
ニ瓶社 2004年
『トラウマティック・ストレス PTSDおよびトラウマ反応の臨床と研究のすべ
て』べセル A・ヴァン・デア・コルク他著 誠信書房2003年
『他人の顔』安部公房著 新潮社 1964年
『燃えつきた地図』安部公房著 新潮社 1967年
『顔をなくした女』大平健著 岩波書店 1967年
Mille Plateaux,Gilles Deleuze, Felix Guattari Editions de Minuit.1980.[アクセント記号は省略] ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー』
河出書房新社 1994.
Empire, Michael Hardt, Antonio Negri Harvard University Press.2000.
『<帝国>』アントニオ・ネグリ マイケル・ハート著 以文社 2003.
Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders DSM-4-TR
(Text Revision), American Psychiatric Association.
『DSM-4-TR精神疾患の分類と診断の手引』アメリカ精神医学会
医学書院 2003年
Kant,Kritik der reinen Vernunft, Meiner, Hbg.

Copyright(C) Nagasawa Mamoru(永澤 護) All Rights Reserved.


© Rakuten Group, Inc.